翻訳よもやま話

第四回「辞書の選び方、使い方(中編)」

こんにちは。今回も前回に続いて「辞書の選び方、使い方」というテーマでお話しします。

英語を知るための辞書

前回ご紹介した「日本語を知るための辞書」と同様、英語にも言葉の定義を載せた辞書だけでなく、言葉の歴史的、文化的、社会的背景を説明した辞書がいろいろあります。これらは翻訳作業の際に手元に置いて「引く辞書」というより、暇なときにぱらぱらめくって英語に関する背景知識(うんちく)を深めるための「読む辞書」と言えます。これらの辞書を持っていないと翻訳ができないということはありませんが、前回も申し上げましたように、翻訳は、ただ字句の置き換え作業ではなく、ある情報や概念を一つの文化的コンテクストから別の文化的コンテクストに移し替える作業ですので、英語の歴史的、文化的、社会的背景への理解を深めることでイメージが広がり、日英、英日のどちらにおいてもより適切な翻訳ができるようになります。そのための辞書をいくつかご紹介します。

①故事伝説辞典

固有名詞を含む単語や成句の語源、歴史上の出来事や実在したあるいは架空の人物に関する説明を集めた「故事伝説辞典」の代表格としては『Brewer's Dictionary of Phrase & Fable』(Hodder)があります。この分野の老舗格で、初版は1870年の刊行、現在のものは第19版です。英語雑学辞典という趣であり、ごった煮という印象をぬぐえませんが、あちこちめくるだけで思わぬ発見があり、楽しめる辞典です。

②決まり文句辞典

私が小学生のころは、秋の運動会になると、校長先生が決まって「天高く馬肥ゆる秋となりまして...」と挨拶を始めたものです。今もこう切り出す校長先生はいらっしゃるのでしょうか。この「天高く馬肥ゆる秋」のような紋切り型の決まり文句のことをclichéと言います。clichéを集めた辞書のひとつに『Origins of Clichés, Proverbs, and Figurative Expressions』(St. Clair Publications)があります。ことわざ、スローガン、広告のキャッチフレーズ、小説や映画の台詞、有名人の発した一言、聖書に由来する表現など実に多彩な決まり文句について、その由来と意味を解説し、実際の使用例をあげています。これらは英語を母国語とする人にとってはピンとくる表現なのでしょうが、日本人にとっては難物です。普通の英和辞典や英英辞典の守備範囲を超えていますので、こういった「決まり文句辞典」は本当にありがたいです。

英文ライティングのマニュアルなどでは「使い古されて手垢のついたclichéはできるだけ使わないように」と指導しているものが多いですが、clichéは小説や映画の台詞、新聞や雑誌の記事では意外に良く出てきます。例えば、最近続編が公開された映画『Independence Day』の1996年公開のオリジナル版で、エイリアンの母船に核爆弾をしかけた後、追っ手を逃れて間一髪でその母船から脱出するシーンで、パイロットのCaptain Hillerが同乗者のDavidにこう叫びます。

"Aah! Elvis has left the building!"

(Independence Day, 1996)

「エルビスは建物を出た」というのはどういうことでしょうか。実はこれ、元はショービジネスの世界で生まれた表現で、ElvisはElvis Presleyのこと。Elvisのコンサートが終わってもアンコールを期待してなかなか席を立とうとしない観客に向かって司会者が「エルビスはすでに会場を出ましたので、皆さんもどうぞお帰りください。」と言うつもりで使ったのが始まりで、そこから一大イベントが終わった時のしゃれた決まり文句として一般に使われるようになりました。ということがこの『Origins of Clichés, Proverbs, and Figurative Expressions』を引くとわかります。

③スラング辞典

英語のビジネス文書を日本語に翻訳する際に、スラング辞典の助けを借りなければならないということはあまりないと思います。ビジネス文書で許容される、多少くだけた(informal)言い回しなら、中型以上の英和辞典には大抵載っているからです。一方、前回「英語を原書で浴びるほど読め」ということを申し上げましたが、英語の小説や雑誌、新聞を読んでいると、一般の英和辞典には載っていない単語や言い回しに遭遇します。そこでスラング辞典の出番です。

スラング辞典の各ページは年代順に集められた膨大な引用例で埋め尽くされています。
(手前『Green's Dictionary of Slang』、奥『Random House Historical Dictionary of American Slang, Volume I』)

スラング(slang)というと、four-letter wordや罵り言葉など、口にするのもはばかられる卑語(vulgarism)のことだと思っていませんか。確かにそれらもスラングではありますが、スラングをもっと広く解釈すると、堅苦しくない文章で使っても差し支えない口語表現(colloquialism)から、ある集団だけで使われる隠語(lingo)、婉曲表現(euphemism)、蔑称、はたまた流行語やキャッチフレーズなども含まれます。それらを網羅した辞書としては、『Green's Dictionary of Slang』(Oxford University Press、全3巻)、『The New Partridge Dictionary of Slang and Unconventional English』(Routledge、全2巻)、『Random House Historical Dictionary of American Slang, Volume I and II』(Random House)があります。いずれも初出例を含む多くの引用例をあげながら、スラングの語源を探るとともに、意味の変遷を丹念にたどっており、学問的にもしっかりしたものです。決してスラングなんてとばかにできません。例えば『Green's Dictionary of Slang』などは、「f」で始まる、例のfour-letter wordの代表的な単語について、何と20ページにもわたって多数の引用例とともに詳しく解説しており、その博引旁証ぶりに脱帽です。この3つはいずれも大部の辞書ですが、1巻本ながら収録語数、解説共に比較的充実しているものとしては『American Dictionary of Slang, 4th Edition』(Collins Reference)があります。

皆さんは英語のビジネス文書などに使われる堅い単語が上等で、スラングは下等と決めつけていないでしょうか。私は言葉に上等も下等もないと思っています。もちろん、正式な文書や場面で使える言葉と、親しい仲間内で交わす言葉は同じではありません。しかしスラングも人の言語生活の重要な一部分である以上、広く英語文化に慣れ親しむために、よそゆきの言葉だけなく、人間の生き生きとした息づかいが伝わるスラングにも目を向けることは決して無駄ではないでしょう。

④政治用語辞典

政治の世界からも様々なキーワードや流行語が生まれます。ほんの一例をあげただけでも、日本だと、古くは「黒い霧事件」、比較的新しいところでは「刺客」「抵抗勢力」「事業仕分け」「アベノミクス」などがありますね。アメリカではニクソン時代に盛んに使われた「silent majority」「law and order」「stonewalling」、ブッシュ大統領(父)の失言「Read my lips. No new taxes.」、ブッシュ(子)政権下で登場した「compassionate conservatism」「axis of evil」などなど、実に多彩です。こういったアメリカ政界を起源とし、人口に膾炙したキーワードやスローガン、流行語、政治家の発言を集めた辞典が『Safire's Political Dictionary』 (Oxford University Press)です。著者のWilliam Safireはニクソン大統領のスピーチライターを務め、その後ニューヨークタイムズマガジン誌上で言葉に関するコラムを長年執筆してきました。その手になる政治用語辞典の記述はウィットに富み、辛口で、味気ない政治学辞典とは一線を画すものです。

初版は1968年で、最新版は第5版です。私は1978年発行の第3版(あちこち探し回った末にUCLAの大学生協で見つけました)から持っており、その中に「There's no such thing as a free lunch」という表現がありました。「この世の中にただのものなどあるわけがない、ただで手に入ると思ったら大間違い」という意味です。この表現を覚えていたので、米国駐在時代に大手量販店との商談の席で使ったことがあります。先方のバイヤー(名前はMike)と次期商品の企画を話し合うミーティングで、そのバイヤーが「価格アップなしに、あの機能をつけろ、これを入れろ。」と無理難題を押し付けてきました。「それはできない。」「なら買わない。」というやり取りが続き、次第に険悪な雰囲気になってきました。こちらの担当セールスや営業部長は困り果てて私の方を見ます。そこで私は「Mike, there's no such thing as a free feature.」と言いました。バイヤーは一瞬「ん」という顔をして、次の瞬間笑い出しました。それまでの険悪な雰囲気がいっぺんに解消され、その後はスムーズに商談が進みました。

英語を正しく使うための辞典

第2回の「翻訳よもやま話」で、翻訳の基礎力をつけるために英文法のおさらいをしましょう、ということを申し上げました。英文法は正しい英文を綴るための約束事ですが、一つ一つの単語にも使い方の約束事があります。それが語法です。最近の高校生向け中型英和辞典(収録語数10万語前後)は語法に関する記述が非常に充実していますので、語法に関する疑問(例えば「何々と比べて」は「compared with」か「compared to」か)はそれを見れば大抵の場合は解消するでしょう。それで解消できない疑問が出てきたら、語法専門の辞書の出番です。英和辞典ではあまりカバーしていない語法まで丹念に拾って解説したものとして、日本で出版されているものでは『現代英語語法辞典』(三省堂)があります。日本人が執筆しているだけあって、日本人が英語を読み書きする中で迷う語法や類似表現の使い分けに実に明解な指針を与えてくれます。私は迷ったらまずこれを引くようにしています。

英米で出版されている語法辞典にも優れたものがあります。大きく分けて、①ある語法について良いか悪いか、正しいか間違いかという判断を示さず(どちらがより一般的かを示す程度)、あるがままに記述する(descriptive)という編集方針をとっているものと、②語法はかくあるべしという規範を示す(prescriptive)という編集方針をとっているものがあります。①に近い路線をとる語法辞典の中で最も信頼できるものの一つが、米国で出ている『Merriam-Webster's Dictionary of English Usage』(Merriam Webster)です。ただし出版が1994年とやや古く、項目によっては最近の語法の実態を反映していません。この1、2年以内に出たものとしては、①では『Fowler's Dictionary of Modern English Usage』(Oxford University Press)、②では『Garner's Modern English Usage』(Oxford University Press)があります。著者のBryan A. Garnerは権威ある法律用語辞典『Black's Law Dictionary』の編者でもあります。『Fowler's』も『Garner's』も改訂を重ね、最新版はどちらも第4版です。おもしろいのは、『Fowler's』の方は一つ前の第3版で、誤用とされた使い方でも広く使われるようになれば許容するという方針を徹底しすぎたために批判されたことを踏まえ、やや規範寄りに軌道修正したのに対し、『Garner's』の方は、第1版、第2版まではかなり規範的(かくあるべし)な編集方針でしたが、この第4版では語法の使用実態をGoogleのデータベースに基づいてパーセントで示したり、ある語法の許容度を5段階で表示したりするなど、少し記述的な方向に向かったことです。

私は学生時代から英語の語法には興味がありましたので、語法関係の辞書や参考書の類いだけでも200冊以上は持っています。こっちではこう言っている、あっちではああ言っていると読み比べるのも結構楽しいものですが、あまりあれこれ比較しても「一体どれを参考にしたら良いのか」と迷ってしまうかもしれませんので、皆さんは詳しい語法辞典を1冊常備し、それを徹底的に使いこなすようにされた方が良いでしょう。


ということで、前回に続き今回も「辞書の選び方、使い方」というテーマでお話ししました。

次回は「辞書の選び方、使い方」シリーズの最後になりますが、英英辞典、英語図解事典、分野別辞書についてお話ししようと思います。

では、また。

筆者紹介

新見暢朗 Noburo Niimi

英語歴30年、翻訳者歴10年、ビジネス文書の英日・日英翻訳のエキスパート。
日系電機メーカーのロサンゼルス現地法人で15年活躍し、その後フリーランスの翻訳者へ。
Brainwoodsの経営顧問でもあり、翻訳講師として社内研修も担当。

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