こんにちは。今回は「翻訳のテクニック」というテーマから少し離れて、私が常々申し上げている「英語を原書で読むことの大切さ、楽しさ」を取り上げます。
連載の第2回「翻訳のスキルをどう磨くか」でも、ちゃんとした英文を浴びるほどたくさん読むことが、回り道のように見えて、実は翻訳上達のためには欠かせないとお話ししました。原書を読むことは、単語や表現が生きた文脈の中でどう使われるかを知るのに役立ちますし、英文の論旨の流れやロジックの組み立て方を肌で感じるためにも有意義です。これらは単に辞書を引いたり、文法書に目を通したりするだけではなかなか身につかないものであり、読書を通しての毎日の積み重ねが大切です。
またその第2回のブログの中で、原書を読みながら気になる単語や表現をチェックし、ノートやカードに書きとめておくことも、自分の中で表現のストックを増やすための有効な手段としてお勧めしました。私の場合は、①日本語の発想からは出てこない、いかにも英語らしい表現、②誤用とされている表現が使われている例、③アメリカの文化的、社会的、歴史的背景を背負った単語などを中心に収集し、カード化しています。そうした毎日の読書の中から、最近目についた表現をご紹介します。いずれも「へえーっ、英語ではこういう言い方をするのか」と感心した言い回しで、英和辞典にはあまり載っていない単語や意味です。では、早速まいりましょう。
「optics」を辞書で引くと、「光学」という訳語しかあがっていません。2018年末に刊行された、10万語以上を収録した『コンパスローズ英和辞典』(研究社)、『ウィズダム英和辞典第4版』(三省堂)でもそうです。でも「光学」と訳したのでは全く意味が通じない例に立て続けに出会いました。その例をまずご覧ください。
最初の例は、米国の元駐ロシア大使だったMichael McFaulの回想録からです。メドベージェフ前ロシア大統領が米国のシリコンバレーを訪問したときの模様です。
「the optics of the trip」つまり「(大統領の)シリコンバレー訪問のoptics」とは一体何のことでしょうか。
次の例は、Michael Wolffによるトランプ政権に関する暴露本第2弾からです。米国の前国連大使ヘイリー氏の辞任表明にまつわるエピソードです。
「optics favored her」つまり「opticsがヘイリー氏には有利に働いた」とは何を言っているのでしょうか。
実は、これらの例にある「optics」は、主に政治的な事柄に関して「ある行為が世間の目にどう映るか、世間に与える印象・イメージ」という意味で使われているのです。「目に映る」「イメージ」というところが「optics」の原義である「光学」の意味合いを残しています。この意味の「optics」は比較的新しい用法のようです。
ちなみに、こういった新語や新語義をいち早く取り込んでいるMerriam Websterのオンライン辞書では、この「optics」をこう定義し、用例を添えています。
optics: the aspects of an action, policy, or decision (as in politics or business) that relate to public perceptions
// …when a broken-down bailout recipient like Citigroup tries to pay its top executives gigantic bonuses or to acquire a new private jet, it has failed to reconsider the optics.
— Nick Paumgarten
また、最近のベストセラー『偽善者たちへ』(百田尚樹著、新潮新書)にこういう一節があります。
この「国民の目にどのように映っているのか」がまさに「optics」です。
日本ではTwitterやInstagramなど情報発信・交換サイトの総称として、もっぱら「SNS」(social networking service)が使われており、新聞や雑誌でもごく普通に「SNS」が登場しますが、米国ではまず通用しない言い方です。アメリカ人に向かって「social networking service」と言うと、「デートの相手を紹介してくれるサービス」と誤解されるかもしれません(笑)。英語ではこれらのサイトを総称して「social media」と言い、個々のサイトは「social media site」または「social media platform」と称します。例をあげます。GoogleやFacebookなどの巨大IT企業の弊害に警鐘を鳴らしている本からです。
もう一つ例を。先ほどのMichael McFaulの回想録からです。
日本語の文章を英訳している際に「SNS」という単語が出てきたら、「social media」と訳さなければなりませんし、逆に英文で「social media」が出てきたら、日本語では「SNS」と訳す必要があります。
「Internet」は固有名詞として扱い、定冠詞の「the」をつけ、最初の「i」は大文字にすると長らく言われてきました。ところが最近では頭を小文字にした「internet」もよく目にするようになりました。例えば、映像コンテンツのネット配信最大手Netflixの創業者Marc Randolphの著作でも
ジャーナリスト向けのスタイルブック(正しいスペリングや語法のガイド)では、
小文字の「internet」が定着した、とまではまだ言い切れないものの、これだけインターネットが広く普及してくると、固有名詞であるという認識が薄れて一般名詞として扱われ、早晩、小文字の「internet」の方が普通の表記になるでしょう。翻訳者もそろそろ小文字の「the internet」を使い始めても良いと思います。
英和辞典にもまだ収録されていませんし、日本の新聞や雑誌、ネット記事ではあまり見かけませんが、「C-suite」は企業の経営陣を総称した言い方です。それは企業のトップにある役職者を
などのように「chief xxx officer」と呼ぶことから来ています。これらの役職をまとめて「CxO」と呼ぶ場合もありますが、「C-suite」の方が響きが良いので好まれるようです。
例をあげます。Michael Wolffによるトランプ政権に関する暴露本第1弾からです。
ここでは、ホワイトハウス退任後は「IT企業の重役の地位が狙える」ということを言っています。
この「read the room」という見出しをご覧になって、「部屋を読む?」と思った方が多いのではないでしょうか。実はこれ、日本語の「場の空気を読む」に相当する英語表現なのです。日本語では「読む」、英語でも「read」が使われているのが面白いですね。もっとも、英語の「read」には、文字を読むことだけでなく、「手相を見る」を「read a palm」、「唇の動きから何を言っているかを読み取る」を「read lips」というように、「read」には「視覚情報から、その意味を解釈する、読み取る」という意味もありますから、「read the room」もその例と言えそうです。
例をあげます。先ほどご紹介したNetflixの創業者Marc Randolphの著作からで、投資家を相手に新規ビジネスの売り込みをうまくやるコツを説明したくだりです。場の空気を読んで、先方が何を求めているかを掴むことが重要だと言っています。
アメリカ人と話をしていると、左右の手を顔の横にあげて、人差し指と中指をちょんちょんと2回軽く折り曲げるしぐさをすることがあります。映画でそのジェスチャーをご覧になったことがありませんか。実はこれは英語の引用符「“ ”」を真似ているのです。ある言葉を強調したいときや皮肉をこめたい時に、その言葉を口にしながらこのしぐさをします。それが「air quotes」です。ギターを弾く真似をすることを「air guitar」と言いますが、「air quotes」の「air」も同じ発想ですね。
例をあげます。オバマ前大統領の側近だったBen Rhodesの回想録からです。
指を使ったジェスチャーと言えば、もう一つよく見かけるのが「親指と中指を使ってぱちんと鳴らす」しぐさです。これはどんなときに使うかというと、「いとも簡単に」「あっという間に」ということを強調したいとき、指をぱちんと鳴らして、“Just like that.”と言います。「ぱちん」が「簡単」「あっという間」ということをあらわしています。今度アメリカ映画をご覧になるときは、こういったちょっとしたジェスチャーにも注意すると、より一層楽しめると思います。
アメリカのバーで酒を注文しようとすると年齢確認のために免許証などのIDの提示を求められます。これが「get carded」です。次の例は、米国のガイトナー元財務長官の回顧録からで、童顔ゆえに、とうに40歳を過ぎても若く見られがちで、ニューヨークでビールを買おうとするとIDの提示を求められたと言っています。
血液型による性格分類のことではありません。日本では「あの人は血液型がAB型だから、二面性がある」とか「僕はB型なので大雑把」などと、血液型と性格を結び付けて言うことがよくありますが、米国ではそういう習慣はありません。人間の性格がA、B、AB、Oという血液型でわずか4つに類別されるということ自体が、統計的にそういう傾向が見られなくもないということはあるかも知れませんが、科学的には根拠に乏しいものです。では、見出しの「Type A personality」とは何のことかというと、血液型とは関係なく、人の性格を表したものです。
例をあげます。第二次大戦後にドイツの科学者を米国に亡命させた秘密プロジェクトを取り上げた本からです。
この例からもうかがえるように、「Type A personality」とは「積極果敢で猪突猛進型のエネルギッシュな人」という意味です。「Type A personality」があるのなら「Type B personality」もあります。
この例からもわかるように、「Type B personality」は「Type A」とは対照的に「おっとりとしていて、何事にもあまり悩まない気楽な性格」のことです。
AとかBに関係して、ビジネスの世界でもよく使われる言葉が「plan B」です。これは現在進めている計画(plan A)がうまくいかなかった時のための「代替案」「次善の策」のことです。
言わずと知れた「西瓜」のことです。新語でも何でもありませんが、隠れたニュアンスがあるので気をつけたい言葉の一つとして取り上げます。まず、この例を。1980年の米国大統領選を前に、現職のカーター大統領(当時)とケネディ上院議員が民主党候補指名を巡って争ったことをテーマにした本からです。
watermelonがなぜ人種差別的なジョークのネタになるのでしょうか。実は、米国では「黒人は西瓜が大好物」と信じられており、「黒人=西瓜」の連想が強く働くからです。上の例は、「黒人の多くが1976年の大統領選でカーターを支持したのは、カーターは地元に西瓜の倉庫を持っており、カーターに投票すると西瓜をもらえると思ったからだ。」という人種差別ジョークなのです。この「黒人=西瓜」という連想からくる心ないジョークはオバマ前大統領にも向けられたことがありました。日本では西瓜と言えば夏の風物詩でほのぼのとした光景が浮かんできますが、米国では「watermelon」は長い黒人差別の歴史が投影された言葉でもあるのです。「西瓜」と「watermelon」は植物学上は同じものを指していても、それぞれの単語が背負っている歴史的、文化的、社会的背景は異なるという例です。
以上、ここ半年以内に読んだ原書から拾った単語や表現をいくつか順不同でご紹介しました。数十年におよぶ読書の合間に書き留めた単語や表現は何万とありますが、とても全てを紹介しきれません。どういうジャンルの原書を読むかは、皆さんの興味や関心次第ですし、何をそこから拾うかも、英語に対する問題意識の持ち方によって人様々だと思います。いずれもこうでなければならないという決まりはありません。そうは言うものの、翻訳者の方や翻訳者を目指す方にとっては、ただ漫然と原書を読むのと、何か面白い表現はないかと意識して読むのでは、後に残るものがまるで違います。例えば、最後にあげた「watermelon」にしても、例にあげた箇所を大して気にもとめずにさらりと読み過ごしてしまうと、それだけで終わってしまい、後には何も残りません。一方、「ちょっと待てよ。なぜ西瓜に人種差別が関係しているのだろう。」と疑問を持つと、そこから米国の歴史の中で、西瓜と黒人が持つ意味合いを調べることもできます。このように「何か引っかかる」という疑問を持つことが大事です。それが英語に対する嗅覚と言っても良いでしょう。決して肩肘張る必要はありませんが、そうやって読書を通して辞書にも載っていない言葉や新しい語義、言葉の隠れたニュアンスを拾い集めるのもまた楽しいものです。それが翻訳者としての素養にもつながっていきます。
次回は翻訳テクニックのテーマに戻ります。また、それとは別に、今回のように読書の中から拾った新語などの面白い英語表現を隔月で一つずつご紹介する独立コラムを近々スタートしますので、それもお楽しみに。
では、また。
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